「久しぶりに、ご飯でも食べに行かない?」
スマホの画面にそのメッセージが届いたのは、小中高を共に過ごした古い友人からだった。
高校を卒業してからはほとんど連絡も取っていなかったけれど、とりあえずOKの返事をした。
けれど、待ち合わせ当日が近づくにつれて、僕の心には少しずつ重たい霧のようなものが立ち込めていた。
FTMとしてこれまでの経緯を話すべきか。
話さなくていいなら話したくない。
でも、隠し続けるのも違う気がする。
そんな気持ちを抱えながら迎えたあの夜に、友人が口にした一言は…。
それから何年経った今もまだ、ふとした瞬間に思い出す。
FTMである僕が、久しぶりの再会に感じた重さ
身体が少しずつ変わり始めていた時期のことだ。
外見上は男性に近づいていたけれど、周囲の認識はまだ追いついていなかった。
FTMとして生きていることを誰かに説明するたびに、少しずつ何かが削れていくような感覚があった。
久しぶりに会う友人に、どこまで話すか。
その加減がわからないのだ。
全部話せば「重い」と思われるかもしれない。
何も話さなければ嘘をついているような気持ちになる。
FTMとして過ごしていた当時の僕にとって、それは毎回の人付き合いに伴う小さな消耗だった。
店の駐車場に到着すると、そこには昔と変わらない笑顔の友人がいた。
注文した料理が届くまでの間、近況報告という名の「空白の答え合わせ」が始まる。
しばらく雑談を続けたあと、僕は意を決して話すことにした。
「実はさ……」
自分が抱えていた違和感とこれまでの経緯を、できるだけ丁寧に話した。
昔から少し「男勝り」なところがあったせいか、友人は驚くこともなく「ふーん、そうなんだ」と、まるで今日の天気を聞くような軽さで受け止めてくれた。
その反応に少し安心した。その後だった。
FTMへの「善意の解決策」が、残酷だった
話題が「結婚」に及んだとき、友人は箸を止めて名案を思いついたような顔で僕を見た。
「あ!じゃあさ、さすけと逆のパターンの人と結婚すれば全部解決じゃん!」
……逆のパターン。
つまり、男性として生まれて女性として生きる人と一緒になれば、お互いのピースがぴったりハマって何も問題ないじゃないか、という発想だ。
友人の言葉は驚くほど真っ直ぐで、そして残酷なまでに「悪気」がなかった。
その瞬間、僕の思考は止まった。
目の前の料理の味が、急にわからなくなったのを覚えている。
友人が悪いわけではない。
彼女は彼女なりに、FTMである僕の「悩み」を瞬時に解決しようとしてくれただけなのだ。
「そういう問題じゃないんだよ」
そう笑って返した気もするし、詳しい説明を諦めて話を逸らした気もする。
正直なところ、どちらだったか覚えていない。
ただ、あの瞬間に感じた「決定的なズレ」だけははっきりと覚えている。
FTMとして生きる僕と、それを外側から見ている人との間に横たわる、埋めようのない距離。
あの日の夕食で、それを痛いほど知った。
FTMの人生が「パズルのピース」に見えてしまう理由
「FTM」という言葉がどれだけ広まっても、当事者の外側にいる人にとって、僕たちの人生は時に「パズルのピース」のように単純に見えてしまうことがある。
性別の違和感とは、人間関係の「条件」ではない。
誰かと「組み合わさる」ことで解決できるものでもない。
でも、その感覚を言語化して伝えることは、想像以上に難しい。
FTMとして生きていると、こういう「善意のズレ」に何度も出会う。
悪意がないぶん、反論もしにくい。
「ありがとう、でも違うんだよ」と言えたとしても、その後の空気が重くなるのが嫌で、笑って流してしまうことの方が多い。
どれだけ外見を整えても、どれだけ言葉を尽くしても、越えられない壁がある。
FTMとして長く生きてきた中で、その事実と何度も向き合ってきた。最
初はそれが悲しかった。
でも今は、「仕方のないことだ」と思えるようになった。
理解されないことを嘆くより、理解し合える環境や関係を少しずつ選んでいく。
FTMとして穏やかに生きていくために、いつの間にかそういう選び方をするようになっていた。
FTMとして、理解より静かな日常を選んだ
あれから月日が経ち、その友人とはいつの間にか連絡を取らなくなった。
不仲になったわけでも喧嘩をしたわけでもない。
ただ、FTMとして「僕として」生きていく上で、あの日感じたような「ズレ」に一喜一憂しなくていい場所へ、静かに身を置きたかっただけなのだと思う。
今の僕は誰にも自分の背景を明かさず、ただの「一人の男」として生活している。
FTMであることは、もう僕の「属性」ではなく、単なる「過去の経緯」のひとつになりつつある。
あの日友人が言った何気ない一言は、今でも時々ふとした拍子に思い出す。
でも今はもう、それに胸を痛めることはない。
理解されない寂しさよりも、「何者でもない自分」として過ごす穏やかな時間の方が、FTMとして生きてきた僕には遥かに大切だからだ。
FTMとして生きるということは、常に誰かに説明し続けることではないと今は思う。
自分が「ここだ」と思える場所で、静かに、でも確かに自分として在ること。
それだけでいい、そう思えるようになるまでには、いくつもの夜があった。
もしこの文章を読んでいるFTMのあなたが、誰かの善意の言葉に傷ついた経験があるなら。
それはあなたのせいでも、相手のせいでもない。
ただ、世界はまだFTMの内側を完全には知らない。
それだけのことだと、今の僕は思っています。
